地球儀を回して世界100周

職場や旅先から世界をほんの少しだけチラ見してみる

平成が終わる夜に

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ゴールデンウィークはタイへ行っていた。タイは2回目(前回はバンコク)で、今回はタイ南部のクラビ、映画で有名になったピピ島、そして一大リゾート地プーケットへ8泊9日の旅。初日の夜だけバンコクスクンビットエリアに泊まったけど、メインは海ということで楽しみにしていた。

 

ところで、今年のゴールデンウィークは5月1日に新天皇が即位し、元号が変わるという一大イベントがあった。4月30日の夜、日本ではまるで大晦日のような騒ぎだったと聞く(Twitter上もそんな感じだった)。

 

私はその時クラビにいて、翌日(即位の日)にピピ島への移動を控えていた。平成最後の日、クラビは午後からスコールに見舞われてかなりの雨量が降った。そろそろ雨季に入ろうかという頃なので仕方がない。基本的に南国の雨というのはまとめて降ってすぐに止むものなのだが、この時は結構長く降り続いて雷も鳴っていた。

 

夜が近づくにつれてお腹がすいてきた。幸いホテルの隣にシーフードレストランがあったので、晩ご飯は傘をさしてその店に行った。そして部屋でビールでも飲みながらクラビ最後の夜を過ごそうと思い、近くのコンビニへ買い物へ行った。ビールやらヨーグルト、ポテトチップスをカゴに入れて、さてレジに向かおうとした時だった。

 

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いきなりの停電。とりあえず近くにいた現地の人と顔を見合わせて一言「オーマイガー」である。一時的なものかと思いきや、一向に電気が点く気配はない。もちろんレジが使えないので退店せざるを得ない。入口では申し訳なさそうな顔で店員さんが客に謝っている。

 

仕方がないので外に出た。せめて建物の電気系統がいかれただけであってほしいと思ったが、案の定停電はコンビニだけでなくクラビ(泊まっていたアオナンエリア)全体で起こっていることらしい。つまり街灯などもすべて消え、外は真っ暗である。そもそもホテルの周辺は田舎道で建物も少なく、ホテルの看板も見えないぐらいに暗かった。

 

とりあえずスマホのライトでホテルの部屋に戻った。カードキーの部屋じゃなかったのが幸いだった(その場合おそらく中に入ることさえできなかっただろう)。でももちろん部屋の電気は点かないし、エアコンも作動しない。もっともスコールの直後だったので、そこまで暑くなかったけれど。

 

ホテルのwi-fiはアウトだったが、レンタルのポケットwi-fiは使えたのでTwitterを見ていた。タイと日本には2時間の時差があるので、日本ではちょうど例のお祭り騒ぎになっている頃だった。しかし一方の私は暗闇の中で独りぼっち。平成が終わろうかという頃に、まるで灯火管制状態である。これじゃ昭和の戦時中じゃないか。

 

やけくそになって灯火管制について検索してみる。そういえば平成の間、日本では一切戦争が起こらなかった。それはすばらしいことだけど、世界に目を向ければ2回の湾岸戦争ユーゴスラビア紛争、アメリカの同時多発テロイスラム国の台頭など、争いごとは絶えなかった。令和は世界中のどこでも銃声や爆音におびえずに生活できる時代であってほしいと思った。たかが停電騒ぎから、えらく壮大な願いである。

 

30分ほど経ったころだったか、電気がついた。明るい。文明って素晴らしい。よし、さっきできなかった買い物をしてこよう。薄暗い程度になった道を歩いてコンビニへ行くと、何事もなかったかのように営業していた。ビールと、ヨーグルトと、ポテトチップスを買って外に出る。そしてスマホの時計を見た。

 

現地時間22時4分。日本では日付が変わり5月1日0時4分。

少し過ぎてしまったけど、新しい時代の始まりである。

 

(冒頭の写真はピピ・レイ島の海)

地雷を踏んだらサヨウナラ

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今年の正月はカンボジアへ行った。世界三大仏教遺跡で朝日を見ることを人生の目標としている私にとって、アンコールワットは憧れの土地だった(インドネシアのボロブドゥールは達成済なので、残りはミャンマーバガンのみ!)。

 

アンコール遺跡群があるシェムリアップは日本からの直行便がない。カンボジア入国にはビザも要る。遺跡の入場料、べらぼうに高い(1日券が3600円ぐらい)!でもとりあえず時間やお金を掛ければ、今では誰でもこんなアンコールワットの写真が撮れる。

 

最近、一ノ瀬泰造さんの「地雷を踏んだらサヨウナラ」を読んだ。インドシナ半島が騒がしかった1970年代前半、クメール・ルージュに支配されたアンコールワットをカメラに収めることに青春を掛け、散っていった青年の日記や書簡をまとめた本。

 

何がそこまで彼をアンコールワットに駆り立てたのだろう。金と名誉が欲しかったのかもしれないし、ただどうしようもなく「アンコールワット」という被写体に惚れ込んでしまっただけなのかもしれない。理由は本人にしか分からないけど、遺された文章や写真からイメージする彼は、とても親しみを感じられた。彼の言葉と、彼の捉えた被写体の表情には「共産主義だろうが、資本主義だろうが、みんな仲良くやろうぜ」的な心が映し出されていたから。

 

もちろん戦場カメラマンという仕事はタフな仕事で、この本の写真にはかなり生々しいものも含まれている。心身共にタフであると同時に、心から平和を願っている人でないとやっていけない仕事だと思う。

 

彼が亡くなった後にベトナム戦争が終わり、ほぼ同時期にカンボジアポル・ポト政権による大虐殺という悲劇を体験した。今回の旅行ではプノンペンに30分ほどしか滞在しなかったので、トゥールスレンやキリングフィールドに行けなかったことが悔やまれてならない。

 

子供たちにせがまれわざとフィルムが入っていないカメラで撮影するエピソードでは「今だったら撮ってあげたんだろうな」とか、時間がかかったり届かなかったりした手紙もメールなんだろうな…と思うと、この時代に写真というものが持っていた威力やセンセーショナルさも感じられた。だからこそ彼は命を賭してアンコールワットを撮ろうとしたのかもしれない。

 

この本の最後にはアンコールワットへと続く道の、当時の写真がある。手入れがされていないことはありありと見て取れるけど、鬱蒼とした木々や道の雰囲気は今とそれほど変わらないんだなと思った。泰造さんは一度目のカンボジア滞在でもアンコール遺跡を目前にしてクメール・ルージュに捕まっている。今では誰にも止められず、アンコールワットへ向かうことができる…

 

いや、止められた人がまさにここにいる。私だ。うっかりチケットコントロールをスルーし、横の道を自転車で走り抜けようとしたところ、警備員に笛を吹かれ止められてしまった。

 

泰造さん、平和な今の世の中でもアンコール行きに待ったをかけられる人がいるでよ!あははは。

 

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(現在のアンコールワットへと続く道)

白い巨塔に潜む魔物

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人間生きていれば多少の病気やケガはつきものである。まして慣れない外国で暮らすことになったら、ちょっとした体調不良なんてしょっちゅうだ。とりあえずは母国から持ってきた薬を飲むなりして何とかするけど、それでも治らなければいよいよ病院へ行くしかない。

 

日本語学校で働いていると学生が体調不良に見舞われることはよくあるんだけど、ほとんどの学生は病院に行きたがらない。「お金がかかるから」と「言葉が通じないから」と言うのが理由の2トップだろう。そんなことより早く行ってくれというのがこちらの本音ではあるけど、確かに異国の地で治療を受けたり出された薬を飲んだりというのは、生きた心地のしないことではある。特に歯医者なんて私なら絶対に嫌だ。

 

私が日本語教師になって最初の現場はインドネシア、その次がフィリピンだった。特にインドネシアはそもそも海外へ行くのが初めてという状態だった。病院デビューは着任後1週間もしない頃だった(幸いインドネシアで病院にかかったのはこの一度だけだった)。日本語が通じる人がいる病院で、また保険にも入っていたのでその辺りの心配は必要がなかった。でも問題は薬である。海外の薬が日本人にとって強すぎるというのはよく聞く話。そしてものの見事に私も出された胃薬を飲んでひっくり返った。

ちなみにフィリピンでも胃の調子が悪くなり、何種類か薬を飲んだことがあったけど、ほとんどの薬は大丈夫だったので全部がダメという訳ではない。ただし偶然インドネシアで飲んだのと同じ薬が出された時は目が回ってしまったので、つまりはその薬が私と合わないと言う話である(ちなみに日本でも普通に処方される薬でした…)

 

診察を受けるだけでもドキドキものだけど、入院なんてしようものならもう笑うしかない。こちらはフィリピンでの話。入院したのは日本でいう聖路加病院で、設備はきれいだし日本語の医療通訳の人もいてそういう面で困ることはなかった(フィリピンは英語がよく通じるので、最低限のコミュニケーションが取れるというのもある)。

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ただ困るのが食事だ。写真は病院食である。とにかくご飯の量が多い。おかずとのの割合が7:3ぐらいである。しかもフィリピンのお米だから、日本人の私にはパサパサしていてこのままでは食べづらいことこの上ない。毎食コショウが付いていたので(多分おかずの肉用)それをかけて食べた。マンゴーやバナナがテテーン!と出てくるところはフルーツ好きの私にはありがたかったけど。

 

日本の病院とは違い、面会や食べ物の持ち込みに関してはとてもゆるかった。向かいのベッドの付添い人は食事タイムのたびに外出し、ジョリビー(フィリピンのメジャーなファーストフード店)の袋を抱えて帰ってきた。おかげで病室のゴミ箱を見ると、いつでも赤いハチと目が合う有様だった。

 

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(ジョリビー。でも撮影したのはベトナムホーチミン)

 

あと注射をするのも豪快で、カウントダウンとともにズブズブっと身体に針を刺された。入院中にずっと注射針が入っていることは日本でもよくある話だけど、日本の場合はプラスチックとか柔らかい素材の針だろう。それがフィリピンでは昔ながらの金属の針だった。それも利き手である右手の甲に3日間。不便この上ない。部屋の掃除のたびに確認のサインを求められると言うのに!

 

私の場合、近くに世話をしてくれる人がいたので実のところそこまで大変ではなかったけど、これが異国の地で病院にひとりきりとかだったら発狂ものだっただろう。

 

やっぱり体調管理は万全にするに限る。

それでもダメな場合は大ごとになる前に病院へ!

マレーシアのタクシードライバー

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「笑ってコラえて」の名物コーナーじゃないけど、初めて訪れた街で最初に出会った人(自分の意識内に入ってきた人)というのは印象に残るものである。私にとってある意味最強だったのは神奈川県横須賀市だ。なんて言っても突然見ず知らずのおばあさんに「お嬢ちゃんかわいいねぇ!かわいいねぇ!」と言われた挙句、息を吹きかけられたのだから。その瞬間からしばらく横須賀という街に恐怖を抱いて歩いたのは言うまでもない。

(その後いい思い出ができたおかげで、横須賀にはいいイメージしかないけれど)

 

今年の初めにマレーシアへ行った。

といってもカンボジアからの帰りにトランジットで、入国してちょっとマレーシアを覗いてみようという程度だった。時間的にペトロナスツインタワーまでは行けそうになかったので、プトラジャヤという街にあるピンクのモスクを見に行くことにした。

 

クアラルンプール国際空港からはタクシー。配車カウンターでモスクを見て空港に戻ってきたいと言ったけれど、片道じゃないとダメだと言われたので仕方なく片道のチケットを買った。厳密にいうとこの配車カウンターにいたお姉さんが最初に話したマレーシア人だけど、いかにも外国の空港職員と言った雰囲気だったのでそこは割愛する。

 

私たちの担当になったのは帽子をかぶったマレー系のおじさんだった。プトラジャヤのモスクへ、と言うと2つあると言われたけど、ピンクのほうと言うとすんなり通じた。マレーシアは英語が通じるのでそれなりにコミュニケーションはとれる。

トランジットの時間を使ってマレーシア見物をしていることを知ったおじさんは整ったプトラジャヤの街並みについてあれこれ説明してくれ、途中で通るきれいな橋では車を止めて写真を撮らせてくれた。そうこうしているうちに目的地であるピンクのモスクに着いた。約束していたのはここまでである。でも着くなりおじさんは「中を見ておいで」と言った。「その間ここで待っているから」と。

 

その日は金曜日だったので、イスラム教の礼拝の日だからダメなんじゃない?と聞くと大丈夫と言う。結果から言うと見学時間を過ぎており、中を見ることは叶わなかった。「ついてないね〜」と笑いつつ、おじさんはすぐ近くにある大統領官邸を案内してくれた。それだけじゃない。空港まで戻ってくれるどころか、その途中でわざわざ遠回りをして友達が行きたいと言っていたところまで行ってくれると言う!最初は「そこ、ルートから外れてるから…」って言ってたのに!

 

聞いてみると、おじさんは留学だったか仕事だったかで、昔日本に住んでいたことがあるらしい。そしてそこですばらしい先生と出会ったことで、数十年が経った今でも日本人に大変な恩義を感じているとのことだった。

「だから、君たちの喜ぶ顔が見たいんだよ」

 

帰りは渋滞に巻き込まれた。東南アジアの国ではよくある話だ。話のネタに、ちょこっとマレー語を話してみた。「渋滞か〜なんてこった〜」ぐらいだったけど(笑)やっぱり現地の言葉を話すと相手との距離がぐっと近くなる。マレー語ってインドネシア語と似ているんだけど、インドネシアに住んでいた時さんざん渋滞にはうんざりさせられたことがこんなところで役に立つとは!

インドネシア語なんて挨拶程度しか話せないけど、全然知らないのと少しでも知っているのとは大違い。だから私は旅行へ行くときは最低限「こんにちは」と「ありがとう」は覚えていくようにしている。

 

友達の行きたいところへ連れて行ってもらった後、空港まで送り届けてもらった。リンギットを持っていないのでドル払いでいい?と聞いたらOKしてくれ(ダメだったらどうするつもりだったんだ、私たち…笑)、最後にまたマレーシアへ来るときはご用命を!とばかりに名刺を頂いた。

 

素敵な出会いがあると、それだけでその国の印象は良くなる。おじさんにとっての日本がそうだったように、私にとってもマレーシアは「今度はゆっくり訪れたい国」になった。

 

仕事柄、私は外国の人にとって「初めて接する日本人」になることがよくある。もしかしたら一人の人の日本という国に対する印象を変えてしまう存在なのかもしれない。

 

帰りの飛行機を待つ空港のフードコートでナシ・レマッを食べながら、改めて気の引き締まる思いだった。

 

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(ココナッツミルクで炊いたご飯、ナシ・レマッ)

僕を止めないで

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私にとってフレディ・マーキュリーは物心ついた時にはもう鬼籍に入っている人だった。それでも子供の頃からテレビやラジオで流れるクイーンの曲を当たり前のように聞いて育った。

 

年末にボヘミアン・ラプソディーを観に行って、もう一度観たいとは思っているんだけど結局行けずにいる。多分言ってる間に公開も終わってしまうんだろうな。

映画を見ている間に考えていたことは「人って物事をいいように扱うよなぁ」ということ、そして「世の中ってやっぱり変わりゆくものだなぁ」ということ。

 

映画の中でも言われているように、フレディはパールシー(インドに住むゾロアスター教徒)の家系に生まれた。ゾロアスター教といえば今のイランで生まれた宗教。大学時代の専攻がイラン文化だった私は、ちょっとだけこの話に覚えがあった。現在イランはイスラム原理主義国家で、西洋的な音楽を聴くことは好ましくないとされている。でもクイーンはOKらしい。というのも、フレディのルーツがイランにあるから。イスラム化以降ゾロアスター教徒は迫害されてきたので、何とも都合の良い解釈である。

ちなみに同じイスラム教国の話だけど、サウジアラビアは逆にクイーンを聴くのはダメらしい。理由はフレディがゲイだったから。人間とは自分にとって都合のいい部分ばかり目を向けるものである。

 

もう一つの感想について。

中学生の時キムタクのドラマでクイーンの曲が使われて、フレディがゲイだったことやエイズが原因で亡くなったことはその頃に知った。日本でも感染原因を作った製薬会社に対する裁判があったりして、それと共にようやくエイズに対する正しい情報が発信されるようになった頃だったと思う。でも性的マイノリティに関する知識はほとんどなかった。心理的に受け入れられるかは別の問題だけど、必ずしもみんなが身体と心の性が一緒で、恋愛対象が異性というわけではないということは今では誰でも知っていることだろう。今の仕事を始めてから何人か当事者に出会ったこともあり、少なくても私にとっては大した問題ではなくなった。

 

そして映画の中でエイズを宣告されたフレディが死を覚悟したようなシーンがあるけど、今やエイズは不治の病ではあっても死の病ではない。発病を食い止める薬があることは学校の教科書にも載っている。今の中高生が見ても、もしかするとあの覚悟はピンと来ないものなのかもしれないなぁとぼんやり思った。

 

多くの人が言っているようにライブエイドのシーンが本当に素晴らしくて、リアルタイムであのライブを体験した当時の人がうらやましいと思った。フレディ役のラミ・マレックアカデミー賞を受賞した直後だからか、通勤途中の駅で「Ay-Oh~♪」と叫んでいる輩がいたからなのか、思い出したように映画の感想を書いてみた次第です。

 

タイトルの「僕を止めないで」は「Don't Stop Me Now」の邦題になりかけたそう。

何気に歌詞を読むと「中二病男子か!」と言いたくなるけど、この曲が一番好き。

お正月に餅をついたこともコマを回したこともないけど

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新年快樂!

 

…と言うわけで、今日は旧暦のお正月でございます。中華圏で言うところの春節ベトナムではテト、韓国では…なんて言うのか学生に聞けばよかった。笑

 

彼らにとっては一年で一番のお休みですが、日本では休日じゃないので、当然ながら普通に学校があるところがほとんど。例に漏れずうちの学校も授業でして、それもちょうどテストに重なってしまい「お正月なのに…」と文句を言われました。うん、気持ちは分かる。

 

それはさておき、先日上級クラスで「お正月に食べる料理」の話が出ました。上級まで勉強している学生となれば日本人がお正月におせち料理やお雑煮を食べることなんて当然知っているんですが、台湾の学生から聞かれたのが

 

おせち料理は温めて食べるんですか…?」

 

…その発想はなかった。笑

今は電子レンジがあるからそれもあり得るけど、もともとはお正月に火を使うと火の神様が怒るから料理ができないとか、三ヶ日の間はお母さんが料理を休むためにあって何もしなくても日持ちするものだから、普通はそのまま食べますよーと説明したところ、一同「何だとぉぉぉ…!」という表情をしてくれたのが面白かった。

 

何でも台湾ではご飯を冷たいまま食べるということはありえない、お弁当だって温めて食べる!とのことです。(最近では日本でもお弁当を温める人は多いけど…)ちなみにおにぎりは大丈夫らしい。

 

せっかくなので他の国のお正月についても聞いたところ…

インドネシアでは宗教ごとにお正月が違うので、その度休みになる

・バリ島のお正月(ニュピ)はみんな外に出ず、何も食べず、瞑想して過ごす。飛行機の離着陸も禁止

・タイのお正月は4月(ソンクラーン)

 

お正月の設定も、祝い方もいろいろですが、一年一区切りでお祝いをする習慣はどこの国にでもあるものなんですね。

 

(写真はホーチミンのニューイヤー花火の直後。原付の数よ…笑)

 

君の名を何と呼べばいいのだろう

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スポーツは幅広く好きなのでフィギュアスケートも見るし、先日の大坂なおみ選手の快挙も見ていた。今日はサッカーアジア杯セミファイナルですね。

 

先週はベトナム戦だった。ベトナムと言えば今や日本語学校では非常に馴染みが深い国だし、私自身もこの間ホーチミンへ行ったところ。先週の試合も当然見ていた。サッカーの話題はネタにしやすいという理由もある(W杯の時はフランス人とイタリア人の争いになりかけたことも…笑)

 

ところで実況や解説で選手の名前を呼ぶとき、大抵は姓(family name)で呼ぶだろう。日本の選手であれば大迫、柴崎といったように。リオネル・メッシはメッシだしルカ・モドリッチモドリッチである。ベトナムの選手はどうするんだろうと疑問がよぎった。

 

と言うのも、かなりの割合でベトナム人の姓はグエン(Nguyen)さんである。後メジャーなものをいくつか合わせれば、それだけで90%を占めるはず。つまりグエンと呼んでしまうと誰のことなのかさっぱり分からない。

 

結論から言うと全ての選手をフルネームで呼んでいた。同じようにメジャーな姓で殆どが占められる韓国の選手もフルネームだったと思う。ただ韓国の名前は姓と名だけなので大した長さじゃないけど、ベトナムの名前は「ホー・チ・ミン」のように3つ以上の人がほとんどだ。長くて言いづらそうだと言う感想を禁じ得なかった。

 

名前って面白いものでお父さんの名前を引き継ぎ「〜son(〜の息子)」と言う名前がつくアイスランドのような国もあるし、フィリピンではお父さんとお母さんの名前をひとつずつもらうそうだ。インドネシアミャンマーでは姓という概念がなくて、スカルノはフルネームだしアウン・サン・スーチーは全て姓じゃなくて名である。

 

今日はイラン戦。

イラン人はホメイニーのように「〜イー」で終わる姓が多い。「〜出身の人」という意味で、イラン人はイーラーニーで日本人はジャポニー。実は大学でイラン関係の勉強をしていた私。心密かにイランのことも応援している。

 

(写真はベトナム名物、原付の大渋滞)

 

追記)

日本の勝利で決勝へ!しかし最後のあれは後味が悪かったなぁ。何はともあれあと一つ頑張って欲しい。

 

あと、ベトナム戦の時にベトナムでは「堂安選手はベトナム系ではない!」という注意喚起が行われていたそう。確かにDOANはよくあるベトナム人の姓ですね。